鴨東幼稚園

じろ園長のこっくりほっくり

うちの子

 自分のクラスの子どものことを「うちの子」と呼ぶベテランの保育者がいた。何か園で問題が起こっても「うちの子にはそんなことをする子はいません」と言ったり、クッキング保育で「うちの子」に特別なメニューを振る舞うために厨房にバルサミコ酢を要求したり、いささか行き過ぎなところはあったけれど、それは保育者として大切な感覚だったのではないかと思う。
 昨今は小学校でも、生徒のために一生懸命尽力する先生に、他のクラスの担任との差が出るので止めてください、と指導されたりすると聞いたことがある。確かに同じ園や学校に通っているのに、このクラスの先生はやってくれるけれども、あのクラスの先生はやってくれない、というのは問題だろう。生活発表会などの行事で他のクラスと差をつけるために、自分のクラスにだけ(こっそり)特別な仕掛けを施すというのも間違っていると思う。けれども、うちの(クラスの)子どもは私にとって特別だという感覚は、保育者に必要だと思う。
 そして同じように親が自分の子どもに対して抱く、特別に可愛くて、特別に賢くて、特別にかけがえがないと思う気持ちも大切だ。なぜならその感覚は本来、他の誰かとの比較から来るものではなくて、誰がどうあろうとも純粋に「私にとってこの子が一番」という気持ちであって、その思いが伝わってこそ、子どもの心に根拠のない自信を育んでいく。つまり子どもを最後のところを支える基礎となるのだ。
 子どもが犯罪を犯したとき、「あの子はそんな子ではない」と親が否定して批判を浴びることも多い。アメリカで強盗に出かける息子を心配して(強盗先に)送り迎えをしたお母さんが逮捕されたというニュースもあった。それらは行きすぎた愛情だと思う。けれども、そのくらいの信頼と愛情を上手く子どもに伝えたり、発揮できていたとしたら、そのような犯罪に走ることは無かったのではないかとも思うのだ。
 私の子どもが小さい頃、教会のある方がこんなことを言ってくださったことがあった。「先生、今、自分の子どもは天才じゃないかと思うでしょう。でもね、皆、育つと普通の子になるのよ」。これを聞いて、私はとってもがっかりしたのだけれど、その時々の子どもを見ずに、ただうちの子は素晴らしい、うちの子は良い子だ、と思い続けていると子どもが生きる現実と親の思う子どもの姿がだんだんと離れて行ってしまう。そして子どもは親の思う自分ではないことに苦しみ、反発を感じるようになる。「この子は私の特別」と思い続けることは、現実のその子の姿を見ることと合わさって初めて本物になるのだと思う。そしてそれはやはり子どもを支える大切なものとなるのだ。
 イエスさまは自分の弟子たちや側にいる貧しい人たちを明らかに「えこひいき」した。金持ちはもう報いをうけてる、と見捨てたようなことも言った。けれども、イエスさまの側からとぼとぼ離れていく金持ちの青年を見て、愛おしく思われたように、誰もが「うちの子」になる可能性を信じておられた。非常に個人的な愛情でも、健康な愛情は必ず広く多くに広がっていく。だからこそ、私たちは素朴に感じる「うちの子は特別」という感覚を大切にしたいと思う。

ギャップ萌えについて

 牧師館で暮らすブランという白猫は、親バカに聞こえるかもしれないが美男子だ。見た人の多くが「美人(猫)さんね」とおっしゃるので、きっと人間ならビジュアル系で中性的な魅力をもった美男子なのだろうと思う。彼は滅多に鳴かないし、いつも落ち着いてすっと立つ、何をしてもカッコいいのである。そんなブランも時々ニャーと鳴いて甘えるし、地震が苦手で揺れると大慌てをする。けれどいつもがいつもなので、そんな取り乱した姿もむしろ魅力的に感じられるのだ。ギャップ萌えというやつなのだろう。一方、いつも甘えてきて、ドジもする、愛嬌があるけれどカッコいいとは言えない猫だって、カッコいいポーズを決めることがあるし、哲学者のような賢い顔をすることもある。けれどもいつもがいつもなので、珍しいなぁ程度で、それほど、感動してもらえないのだ。

 随分前のことだが、かなり慎重な私の母がオレオレ詐欺に引っ掛かりそうになったことがある。それはしっかり者の私の兄(を名乗る詐欺師)から「高価な研究機材を壊してしまったので100万円を振り込んで欲しい」という電話があったからだそうだ。いつも迷惑をかけていた私からの電話なら引っかからなかった。普段、迷惑をかけない兄が頼ってきたことで手助けをしてあげたいと思ったのだそうだ。なるほど、ギャップ萌えが母の慎重なガードを崩したのだった。

 普段しっかりものの子どもが、失敗をしたり、少々ワガママを言ったりしても同じことが起こるのではないだろうか。親としたら、いつも頑張っているし、この子もこんな面があったのだなと好ましく思えて、その子に優しく接したり、求めるままに応えてあげたりする。逆に、普段からどうも上手くできなかったり、だらしなかったり、ワガママだったりする子が、思いの他頑張ったり、しっかりするときがある。そんな時、「できるんやん、おどろきやわ」とか、「めずらしいな、雪が降るんとちゃう」とか、冗談のように流されてしまう。「普段からやってくれたらいいのに」とか、他の人に「普段は全然ダメなんですよ」なんて言われて藪蛇になったりもする。仕方がないとはいえ、少々理不尽に感じられたりもするのだ。

 上の子応援団の私としては、しっかり者で責任感の強い子が弱さを見せてくれたときは、頑張れではなく、ぜひギャップ萌えの魅力だと甘やかせてあげて欲しいと思う。そうすればまたエネルギーを貯えて自分らしいの道を歩んでいけると思うのだ。

 しかし下の子のズルさも身勝手さも自分のこととして知った上で、あえて逆ギャップ萌えも推奨したいと思う。普段、駄目な自分を見せてくる子どもが頑張ったとき、親の見ていないところでしっかりとした姿を見せたと聞かされた時、ぜひとも、それを茶化すのではなく信じて褒めて、そして、大いに感心してあげて欲しいのだ。そうすれば、親にはいつまでも頼りなく見えていても、きっと自分の力を信頼して、しっかりと自分の力で歩んでいく大人へと成長してゆくことができると思うのだ。

 ちなみに私は中の子応援団もしている。真ん中の子って、兄弟の中で、なかなか難しい立ち位置で苦労するように思いませんか。子どもたち皆が、人を信じ、自分を信じて成長してゆくことができますように!

もう今年も9月です。

 最近、一年が経つのが異様に早く感じることがあります。幼稚園の主任さんは近年よく冗談で、年明け早々にもうすぐクリスマスなんて言うのだけれど、確かにそうかもしれないと思ってしまうほど早く感じる時があるのです。

 年をとるとなぜ時間が経つのを早く感じるのかを説明するジャネーの法則という仮説があります。それによると人は、それまで過ごしてきた時間に対する割合として時間の長さを感じるというのです。つまり私のように60歳にもなると1歳の頃の1年に比べて1/60の長さしか感じないということになります。だから人の一生の真ん中は生まれた時から換算すると10歳頃、記憶がある3歳くらいから考えると20歳頃、その年齢には人生の半分を過ぎることになるのです。

 そう考えると、人生において子ども時代がどれほど貴重なのかを改めて実感できるのではないでしょうか。私たち大人は、「将来に役立つ」と思って子どもに我慢させたりするのだけれど、その将来というのは人生の半分にも満たないということになります。だからただ我慢して与えられたことに頑張るだけでは、体感的に人生の大半の時間を無駄に過ごしてしまうということにもなりかねないのです。

 ただこれにはもう一つの要素があります。人が過ごす時間を長く感じるには秘訣があるのです。それは慣れ親しんだ毎日とは違う、新しい時間を過ごすことです。今まで経験して来なかったことをするのはストレスだし、苦労も多いし、学ぶことが多いから億劫に感じるものです。けれども、それこそが生きる時間に密度を加えます。要は、将来に亘って人生を充実したものにするには、いつも好奇心をもって、これに挑戦したい、あれをやってみたいという気持ちを持ち続ける心を育てなければならないのです。そしてそれには、やっぱり子どもの時代にやってみたいことをやってみる。失敗しても大丈夫という経験をすることではないかと思うのです。

 それは楽にやりたいことをするだけ、ということではありません。ストレスは成長には欠かせないものです。やろうと思って頑張ってみる先に「ああ、充実した時間を過ごしたな」という満足感が感じられるものです。そんな人生を私たちが歩んでいくことができれば、数十年先に人生の終わりを迎え振り返ったときに充分に生きたなという満足感が得られると思うのです。 子どもたちには、自分の好奇心に忠実に生きるそんな子ども時代を過ごして欲しいと思います。一方、私たち大人も、いつも興味深く世界を知って、新しい思いと願いをもって生きていく時間を過ごしたいものです。今の時代、ニュースで世界の様子を見ると失望し、夢失うことも多いけれども、それでも生きていく人の姿に希望を見出だしながら、子どもたちに大人になるのも悪くないと思えるような私たちの生き様を示してゆきたいと思うのです。

教育について

 先日、幼稚園関係の研修会でこんなことを聞いてびっくりした。漢字の学習では読むことが大切で書きはそれほど重視されない。文科省の今の指導の基準では、跳ねや止めの間違い程度では〇。横棒が一本多くても他の漢字になってしまう場合を除いて〇というのだ。跳ね方一つで×をもらった世代としては「えー?」という気持ちもある。しかし僕の字は汚い。それを隠すために変な癖がついて、今や(家族曰く)アートの域に達しているそうだ。それは慌てて書くと自分でも判別できなくなるほどで、確かに文字なのに判別できないと困るのだ。しかし、それ以上に求められる正確さに悩まされてきた身としては救われた気持ちにもなるのだ。

 学習障害の子どもには、これは朗報だ。実際、社会に出れば手書きで字を書く機会は少ない。漢字を読めさえすれば、書く方は機械が読みやすく正確な字を書いてくれるからだ。それに漢字が正確に書けないということで劣等感を抱くことなく育ち、学校教育の中で表現する中身こそが評価されるならば、きっと埋もれることなく花開いた人生も沢山あったろうと思う。

 ところが学校現場にはこの指導はそれほど普及していない。昔と変わらず止め跳ねが不正確だったり、横棒を1本余計に付け足してしまう子どもは、努力不足として厳しく指導されている。これは何だろうなと考えてしまう。自分が受け学んできた指導を変える柔軟性を持たないのか。×をもらう「はず」の子に〇をつける正義感に似たズルいという気持ち?嫉妬? いや、これは文化だ。教育とはやはり受け継がれていく文化だからこそ変えることに抵抗があるのだ。

 しかし実際を見ると教育文化は大きく変化してきている。子どもの能力を絶対的に評価する時代から、相対的に競い合わせ下を切っていく価値観が今の教育を歪ませている。努力よりも成果が何よりも求められる。これは子どもだけでなく先生に自身にも評価の圧力として圧し掛かっている。こうして子どもたちが将来、幸せに人生を歩んでいくためになされてきた教育の文化は破壊されてきたのだ。

 そう考えると学習障害やそうした傾向をやや持っている大勢の子どもたちの為になされた文科省の漢字指導の基準の変更は、子どもの将来の幸せのためにという従来の教育の文化に適っている。そしてそれは、失われてはいけない教育の文化を細々とでも継承していくこととしても大きな価値があると思うのだ。

 実は、漢字の学習において、書くことの正確さを重要視する分野もある。それは日本語の文字文化の分野だ。誤解してはなららないのは、跳ねや止めの間違いを×にしないということと、不正確な漢字を文化として認めていくこととは違う。あくまでも漢字の書きの正確さは、子どもたちの将来の幸せにとって絶対的に重要なことではない。まして、正確に字を書くことが難しい子どもたちにそれを要求することはマイナスでしかない、だからこその変化なのだ。日本語の漢字の横棒の数は適当で良いのですよ、ということとは違うのだ。

 実は、差別をなくそうとすると同じような誤解から、その変化に反対する人が必ず生まれる。何か変えようとすると、それは文化の破壊だといい、それによって生じる様々な問題について想像であげつらい、賛同者を増やしてゆくのだ。それは今の同性愛者や性同一性障害者への差別発言についても同様だ。様々な性のあり方を認めることと、それぞれが自分の生き方を否定することとは違う。体が男性で性自認が男性の人は、そのままに生きてゆけば良いのだ。体が女性で性自認が女性の人がこれまで通りに生きていくことを誰も否定していない。ただ、自分とは違っている人もそのままに生きていくことができるような社会にしていこうよ、いうことなのだ。そしてそれは、誰もが平等で平和に生きていくことが認められる社会の実現を目指してきた、私たちの世代が大切にしてきた文化だったのではないかと思うのだ。

 もちろん何かを変えれば、新しい課題も生まれるだろう。でもそれは考え合って工夫してゆけばいい。新しいルールを作ったり、様々な社会のあり方を見直したりすればいい。それによって、幸せに生きていくことができる人が増えるなら、それは楽しいチャレンジだ。そしてその努力は、これから育っていく多くの子どもたちの幸せにつながっていくのだから。

料理のこと

 ある人が自分の妻に「久しぶりにピザを食べたい」と言って会社から帰ってきたら、妻がピザ生地を捏ねていたと驚いていた。彼はピザの宅配を期待していたようでガッカリしたらしいのだが、とっても素敵なことじゃないかなと思ったことだった。ピザを食べたいと言ったら手作りピザを作ってくれるなんて、夫婦仲の良い証拠じゃないだろうか。
 私が親元を離れ一人暮らしを始めた時、さぁ、自分で料理を作るとなって困ったのはレシピ本の用語が分からないことだった。小さじ?大さじ?え、なに? 確かにプリンをすくうような小さなスプーンとカレーを食べるような大きなスプーンを持っていたけれど、それってメーカーやデザインでまちまちじゃないの?と困ったことだった。謎の名前の調味料や材料、コリアンダー?シャンツァイ?パクチー? ひとつまみ、少々、適量、飴色にきつね色、弱火に強火、押したら戻るくらい、赤ちゃんの耳たぶくらい、料理は多様でファジーな情報の集合体だ。こうした曖昧さをいい加減に理解することが苦手な人にとっては、料理というのはひどく難しい業に思えるもので、正直、そうした人向けにもう少し分かりやすい料理本を出してくれないものかと思ったことだった。
 それでも一人暮らしと自炊の経験は、私にいろいろなことを教えてくれた。夢にまで見たアイスクリーム食べ放題は、好きなものでも食べ過ぎると美味しく感じられないことを教えてくれたし、小さな鍋で麺をゆでた時にはどろどろになり、そばを水でさっと洗うだけでこんなに味が変わるのかと驚いた。また子どもの頃から大嫌いだったセロリがスープやサラダの味を調えてくれる鍵だったのだと大好きになった。また料理は結構いい加減でいいんだと理解したころ、お菓子作りはレシピ通りにしないと絶対に成功しないというのもペッチャンコのシュークリームを焼いた時に思い知ったのだった。
 今はYOUTUBEでプロの料理人が作っている手順を見せてくれている動画が山ほどあるので、僕のような全く知識がなく料理を始める人にとっては本当に良い時代だと思う。最近よく見るチャンネルでは、東京でフランス料理店を開いているシェフが料理を作ってくれるのだが、まぁ、結構いい加減なのだ。食材だってなければ〇〇でもいいですよ、と教えてくれる。そして、そのいい加減さの中にこれぐらいの焦げが旨味なんだとか話しながら作ってくれるので、丁度良い色とか、水気のとび具合とかが見て分かるのだ。プロは何度も味見をして味を決めるし、いくつかの要素の組み合わせに過ぎないと分かるとソースやドレッシングを作るのも難しくないことだと思えてくる。そして番組の最後に料理に合うワインを紹介してくれて本当に美味しそうに自分の料理を食べて終わる。ああ、料理って人を幸せにするためのものなんだと実感するのだ。
 今、スーパーに買い物に行くといろいろな料理の素が売っている。それを使うといろいろな調味料を揃えなくていいし、量らなくてもいいので、あっという間に料理が出来上がる。そして間違いなく美味しくできる。それは確かに便利だし、急いでいるときなどには本当に助かるものだ。けれども料理の素という正体不明の物でしかその料理を作ることができないとしたら、ちょっと損をしているように思うのだ。
 どんな料理だって人が作ったものなのだ、だから人が作ることができる。子どもには料理は難しいものではなくて、やろうと思えば何でもできるんだということを伝えたいものだ。そう言いながら、時間の関係で幼稚園のクッキングではちゃっかり市販のルーを使ってしまったりするのだけれど、本物の料理、多様な世界の料理や食材の事をできるだけ伝えたいなと思っている。