鴨東幼稚園

じろ園長のこっくりほっくり

教育について

 先日、幼稚園関係の研修会でこんなことを聞いてびっくりした。漢字の学習では読むことが大切で書きはそれほど重視されない。文科省の今の指導の基準では、跳ねや止めの間違い程度では〇。横棒が一本多くても他の漢字になってしまう場合を除いて〇というのだ。跳ね方一つで×をもらった世代としては「えー?」という気持ちもある。しかし僕の字は汚い。それを隠すために変な癖がついて、今や(家族曰く)アートの域に達しているそうだ。それは慌てて書くと自分でも判別できなくなるほどで、確かに文字なのに判別できないと困るのだ。しかし、それ以上に求められる正確さに悩まされてきた身としては救われた気持ちにもなるのだ。

 学習障害の子どもには、これは朗報だ。実際、社会に出れば手書きで字を書く機会は少ない。漢字を読めさえすれば、書く方は機械が読みやすく正確な字を書いてくれるからだ。それに漢字が正確に書けないということで劣等感を抱くことなく育ち、学校教育の中で表現する中身こそが評価されるならば、きっと埋もれることなく花開いた人生も沢山あったろうと思う。

 ところが学校現場にはこの指導はそれほど普及していない。昔と変わらず止め跳ねが不正確だったり、横棒を1本余計に付け足してしまう子どもは、努力不足として厳しく指導されている。これは何だろうなと考えてしまう。自分が受け学んできた指導を変える柔軟性を持たないのか。×をもらう「はず」の子に〇をつける正義感に似たズルいという気持ち?嫉妬? いや、これは文化だ。教育とはやはり受け継がれていく文化だからこそ変えることに抵抗があるのだ。

 しかし実際を見ると教育文化は大きく変化してきている。子どもの能力を絶対的に評価する時代から、相対的に競い合わせ下を切っていく価値観が今の教育を歪ませている。努力よりも成果が何よりも求められる。これは子どもだけでなく先生に自身にも評価の圧力として圧し掛かっている。こうして子どもたちが将来、幸せに人生を歩んでいくためになされてきた教育の文化は破壊されてきたのだ。

 そう考えると学習障害やそうした傾向をやや持っている大勢の子どもたちの為になされた文科省の漢字指導の基準の変更は、子どもの将来の幸せのためにという従来の教育の文化に適っている。そしてそれは、失われてはいけない教育の文化を細々とでも継承していくこととしても大きな価値があると思うのだ。

 実は、漢字の学習において、書くことの正確さを重要視する分野もある。それは日本語の文字文化の分野だ。誤解してはなららないのは、跳ねや止めの間違いを×にしないということと、不正確な漢字を文化として認めていくこととは違う。あくまでも漢字の書きの正確さは、子どもたちの将来の幸せにとって絶対的に重要なことではない。まして、正確に字を書くことが難しい子どもたちにそれを要求することはマイナスでしかない、だからこその変化なのだ。日本語の漢字の横棒の数は適当で良いのですよ、ということとは違うのだ。

 実は、差別をなくそうとすると同じような誤解から、その変化に反対する人が必ず生まれる。何か変えようとすると、それは文化の破壊だといい、それによって生じる様々な問題について想像であげつらい、賛同者を増やしてゆくのだ。それは今の同性愛者や性同一性障害者への差別発言についても同様だ。様々な性のあり方を認めることと、それぞれが自分の生き方を否定することとは違う。体が男性で性自認が男性の人は、そのままに生きてゆけば良いのだ。体が女性で性自認が女性の人がこれまで通りに生きていくことを誰も否定していない。ただ、自分とは違っている人もそのままに生きていくことができるような社会にしていこうよ、いうことなのだ。そしてそれは、誰もが平等で平和に生きていくことが認められる社会の実現を目指してきた、私たちの世代が大切にしてきた文化だったのではないかと思うのだ。

 もちろん何かを変えれば、新しい課題も生まれるだろう。でもそれは考え合って工夫してゆけばいい。新しいルールを作ったり、様々な社会のあり方を見直したりすればいい。それによって、幸せに生きていくことができる人が増えるなら、それは楽しいチャレンジだ。そしてその努力は、これから育っていく多くの子どもたちの幸せにつながっていくのだから。