鴨東幼稚園

じろ園長のこっくりほっくり

宗教について思うこと

 両手で枝にぶら下がるという修行がある。で、ぶら下がっている弟子に対して師匠は右手を離し、次に左手を離すように指示を出す。このとき、両手を離すことができないでいる弟子は失格になると言う話だ。面白いのは同じ話がいろいろなバージョンで語られていることで、仏教、仙術、そしてキリスト教でも同じ話を使って信仰について教えられることがあるのだ。要はこの話を通して、あなたは両手を離すことができるほど信じているかという問いかけだったり、信じ切れない人間の弱さを教えているのだ。
 宗教ではしばしば、「疑わずに信じる」ということが大切だと教えられる。呪いの類でも疑ったら効果がないと言われたりもする。それはいろいろな宗教や神秘思想、スピリチュアリズムでも一般的で、正しい教えだと信じられていることが多いように思う。けれども、それは本当なのだろうか。熱心なクリスチャンが祈っても叶えられないとき、まだまだ信仰が足らないというように言うことがある。また何か不幸に見舞われて嘆いていることが、信仰が弱いと評されることもある。しかしそうした感じ方自体が、むしろ神さまを侮っていることなのではないかと私は感じるのだ。
 私の父は物理学者で、夕ご飯の時間に家にいることは少なかったのだが、幼い頃の私たち兄弟にとって、父との食事の時間は楽しみだった。自然のこと、宇宙のこと、機械のこと、いろいろなことを父に質問すると、父はビールを飲みながら、その一つ一つに丁寧に答えてくれたものだった。科学は疑うことから始まると言われる。見たこと、起ったことをただ信じるのではなく、本当は何が起こっていたのかを疑ってかかる。その背景にある可能性や仕組みを推論しながら、それを一つ一つ確かめていく中で、本当はどういうことが起こったのか。或いは、何が分からないのかを明らかにしていくのだ。だから真っ当な科学者の言うことは、どこか頼りなく感じられる。すぐに結論が出ず、まだ分からないけれども、こうした可能性がある。こうなるかもしれないけれど、こうなるかもしれないということになる。それもよりも、こうだとか、こうなると断言するような言葉を紡ぎ出す人の方を人は信頼してしまう。これが宗教にとっては都合が良いし、政治にとっても都合が良い。もっと言えば、宗教と政治が結びつきやすい、お互いの相性が良いということになるのだ。
 しかし人に無条件に信じることを求める、或いはそのように人の心を絡めとっていく宗教は、似非宗教だということはもっと知られて良いと思う。イエスさまは、神さまを信じているなら塔の上から飛び降りたらどうだ、と悪魔から言われたとき、神さまを試すようなことをしてはいけないと拒絶した。両手で枝にぶら下がっている手を両方離したら地面に落ちるじゃないですか、と言わない宗教は宗教ではないということを心にしっかりと刻むべきなのだ。宗教というのは反社会的なものだと言った人がいるが、それは社会を破壊するという意味ではなくて、この世で当たり前、仕方がないとされていることに、本当にそうなの?違った生き方があるんじゃない?それって本当に幸せなの?と問い掛けることが宗教の役割だということなのだ。
 信仰は確かに信じることから始まる。けれども、それは教えられたことを疑わずに受け入れるということではない。自分の心や体で感じていること以上に、それでも、こう生きるという自分の生き方を持つということだ。それは自分で選び取っているからこそ、間違っていると感じたときには生き方を変えることができる。「神は本当に自由な人の心に宿る(だから神はいない)」と言ったのはルドルフ・シュタイナーだが、イエスさまは「真理はあなたがたを自由にする」と教えられた。自由な人がこう生きると選び取った道が信仰なのだ。私の父は物理学者だけれど、とてもロマンティストだ。疑い、論証し、しかしその先に宇宙の摂理のような真理があると信じていると思う。父は特定の宗教を信じていないけれど、信仰者だと私は思っている。
 私がある教会に呼ばれて神さまのお話しをしたとき、その時の聖書の主題は、「あなたの神を愛する」という内容だった。話し終わって信徒の人たちと話していた時、ある人がこう言ったのだ。「先生は神さまを愛することの大切さをおっしゃったけれど、私は、イエスさまって私にべた惚れやって思ってます。」とおっしゃった。これを聞いて私は、ああ、これが信仰だと思った。私たちがどうあろうと、何を疑い、何に躊躇おうとも、神さまは私たちを愛している。私たちがこの世に生まれて来たということは、この世界に喜ばれている。生まれてきたときに響き渡ったのは、「さぁ、こう生きよ」という声ではなく、「よく来たね」という声だったということを、その人は確かに生きているなと感じたのだ。
 私は牧師だから、教会に連なりキリスト教を信じる人が増えて欲しいと願っているけれど、同時に、人は誰もが真に自由な心をもって生きていって欲しいと願っている。それは、幼稚園の子どもたちにも願っていることで、特定の宗教を信じることはなくても、自分はこれを大切に生きていくという信仰の芽を心の中に育てていって欲しいと思っている。そしていつか、心の中に入り込み支配しようとする誘惑や欲望や大きな力が働きかけてきたとき、自分の心の内にある大切な場所、自由な魂の働く場所を守ることができる心の力を育んでいって欲しいと願っている。それは別に特別なことではない。おかしいと感じることをおかしいと言えることだ。何か変だなと感じる自分の心を、自分の方が間違っているのだろうと抑えつけないことだ。そして、自分はこう生きていきたいという、自分がこの世に生まれてきた意味を今生の中で追い求めていくということだ。そしてこの世界の人たちが本当に自由な心を生きることができたとき、それこそが神さまの国がこの世に実現するというイエスさまの願いが成就するのだろうと思っている。
 この世にある宗教の形をしたものによって不幸が生み出され、私たちの見えないところで力を振るっている今だからこそ、自由な精神と心を育んでいく大切さを強く感じずにはいられない。