鴨東幼稚園

じろ園長のこっくりほっくり

臆病さと大胆さ

 近所にいる野良猫が子猫を産んことがあった。子猫は遊びたい盛りで、まだ産毛の生えたコロコロの身体で小さなしっぽを振りながら、あっちの庭木に登ったり、こっちの地面に穴を掘ったりと走り回っていた。人間も猫もこの時期の子育てが大変なことは同じで、お母さんはいつも心配して呼び戻したり、子猫を眺める怪しげな私のような人間をシャーと威嚇したり、疲れた様子をしながらも忙しそうにしていたのだった。
 白とぶちの2匹がいるのだが、白はとても臆病でお母さんが促すまでもなく、人を見かけると慌てて塀の影へと逃げていく。ところがぶちの方は大胆で、木にも登るし、私の目の前の窓ガラスの近くまでやってきたりする。その度にお母さんは私を睨みつけながら、子猫を呼び戻さなければならないのだ。きっとハラハラしどうしだろうと思う。ところがある日、そのぶちが急に臆病になり、少し物音がしただけでさっと逃げてゆくようになったのだ。
 実はある日、幼稚園の組み立てプールの置き場のシート裏で子猫の泣き声が聞こえたことがあった。お母さんは近くの物陰に潜んで子猫を呼んでいるのだが、子猫は入り込んだシートの出口が分からなくなったのかニャーニャーと半ばパニックになって鳴いてバタバタしていたのだ。幼稚園の主任さんが見かねてシートをずらしてくれたので無事に逃げ出すことが出来たようなのだが、余程その時、怖かったのだろう。大胆不敵のぶちは、とても臆病で慎重な子猫になったのだ。
 牧師館で飼っていたぺぺとろろにも同じことがあった。子猫の時には女の子のろろの方が大胆だったのが、ある日、それが逆転したのだった。ずっと不思議に思っていたのだが、今回の出来事でその理由が分かったような気がする。大胆な子猫はいろいろなことにどんどん挑戦する。でもどこかで必ず失敗をする。怖い思いをすることもある。そうして慎重さを身に付けるのだ。逆に、元々臆病で用心深い子猫は、そうした失敗をしないから最終的に、何をしても大丈夫な経験が重なって大胆になっていくのではないかと思う。どうもそうやって、猫の世界ではうまくバランスよく成長しているようなのだ。
 そう考えると人間はなかなか難しい。私たち大人は子どもが慎重だと、もっといろいろなことに挑戦しないかと心配して、時に無理に何かをやらせてしまったりするのではないだろうか。怖気る子どもを叱って押し出してしまったりすることもあるのではないだろうか。それが上手くいかないと慎重な子どもは自信を失い、もっと臆病になってしまう。逆に、大胆な子どもを心配して、先に先の失敗の芽を摘んでしまう。もちろん大きな怪我などは避けなければならないのだが、大人が先々に手を打ってしまうと、そうした子どもの注意深さや慎重さが育まれないということはないだろうか。積極さに根拠のない自信が伴ってしまって、大きな危険を察知して避けるための経験を積む機会を子どもから奪ってしまってはいないだろうかと心配をするのだ。
 イエスさまは、お弟子さんたちに「蛇のように賢く、鳩のように素直になるように」と教えられたことがあった。「鳩のように素直になる」というのは分かるように思うのだが、「蛇のように賢く」というのは、蛇のイメージもあってどう解釈すべきか難しいところがある。実は、鳩は素直といっても純粋無垢ではない。街で成育しているように空飛ぶゴキブリと呼ぶ人もいるくらい様々な環境に適応して生きていく逞しい鳥なのだ。蛇には怖いイメージをもつ人が多いのだが、実は特別臆病で、蛇の鋭敏さや賢さは餌を獲る以外には、主に安全に逃げ隠れするために活用されるものなのだ。つまりイエスさまは迫害が予想される状況の中で、お弟子さんたちに慎重にしぶとく生き残れるようにと助言なさったのではないだろうか。
 かっこ悪いから逃げないとか、正しいと思うことの為ならば死んでも良いというのは、確かに凄いと思うけれども他人にお勧めできる生き方ではない。ましてこれから無限の可能性に向かって成長していく子どもたちに、そうあれとは私には教えられない。そしてイエスさまも愛する弟子たちに同じ思いを抱いておられたのではないかと思う。自分が皆を助けるために十字架に架かることを覚悟しておられたけれども、お弟子さんたちにはなんとか逃げ延びて、生き残って、大切な教えを後世に伝え残して欲しいと願われたのではないかと思うのだ。
 子どもたちにはこの生き辛い時代を生きのびて、幸せな未来をつかみ取って欲しい。どれだけ逃げても、退いたり、やり直したとしても、自分は認められ愛されている「大丈夫」という気持ちと、自分にしかできない何かがあるという自信をもって成長していって欲しいと思う。そしていつも生まれてきて良かったと思って歩んで欲しいと願っている。