鴨東幼稚園

じろ園長のこっくりほっくり

不思議を大切に

 僕の母方の家に言い伝えられている「お先」という妖怪のお話しがある。丁度、姫路城が築城された頃、姫路のお殿さまに召し抱えられることになった長澤村の一族が、全員で城下町に引っ越したことがあったそうだ。 もともと長澤村の家では、畳と畳の間から指の先がずらーっと並ぶと言う妖怪が住んでいたというのだ。ところが引っ越すことになり、あれは気味悪かったけれども、もうお別れかと思うと少し寂しいというような話をしながら途中の旅籠の部屋に通されたところ、その部屋の畳の隙間からも指が出て、「お先~(お先に着いていたよ)」という声が聞こえたのだそうだ。こうして長澤村から姫路城下までついてきた妖怪は、「お先」と呼ばれるようになったと言うのだ。
 不思議なお話だけれども、いったいこれはどういうお話しだろうかと思う。英雄譚でも何かの起源を説明する話でもない。この後どうなったというのもなく、何が特別なことが起こったわけでもない。そんな「ただこんなことがあった」という言い伝えだけに、科学的には説明できないけれども、本当にこういうことがあったのかもしれないな、と思わされるのだ。
 考えて見れば私たちが幼い頃は、世界は不思議で一杯だった。水の流れ、雨の音、真っ赤な夕焼け、さまざまなものが、ただ私たちの周りには存在していたのだった。そして、それら全てのものの陰には、見たことのないような何かが隠されているように思えて、少し怖かったりもしたのだ。例えば、夜、ミシっと家が鳴ったりすると、何かいそうで怖かったのを覚えている。私の母は幼い頃、姉と母親に庭の隅に「まめた」が出ると散々脅かされたそうだ。けれども大人になって考えて見ると、「まめた」というのは「豆狸」なのだから、怖くもなんともない、むしろ可愛い存在で、どうしてあんなに怖かったのだろうと話していた。
 現代の日本の夜は明る過ぎると言った人がいる。確かに変な犯罪も多いし、町も道路も明るいことは安全上、必要なことなのかもしれない。だけれども、きっと昔いたような少し怖い不思議な存在は、この時代には住みづらいだろうなぁと思わされる。それと同時に子どもたちの遊びの世界も、心の世界にも秘密がなくなって、すべてが明るい光に照らされて大人が見透かすようになってしまっていることが心配に思えるのだ。
 子どもは隠れるのが大好きだし、隠すことも大好きだ。それは子どもにとって、小さな小さな自立への一歩なのだ。自分しか知らない自分だけのものを、一人だけでそっと確かめる。大人に知られると、くだらないと言われたり、真実を説明されたりしてしまうような、ささやかなものであったとしても、自分だけの秘密は子どもが成長していく上で、非常に大切な心の砦を作っていく基礎になるのだ。
 大人は、子どもについて自分が知らないことがあると不安だし、心配だ。だから、すべてに光を当て、すべてを聞き出し、すべてを手の内に置こうとする。その気持ちは良く分かる。けれども、そうした子どものすべてを知り、管理しようとする思いが行き過ぎた時、子どもの心は、明るすぎる光に照らされる。隠れる場所も、一人だけの孤独も、少し不気味な暗がりもなくなってしまう。心の表(光)と裏(影)の間をつないでいた薄暗がり、心の縁側のようなものが無くなってしまって、所謂、神話的な世界とのつながり、自分は何処から来て何処に行くのか、自分は何のために生まれてきたのか、という人生の行く先を導いていく自分だけの神話との繋がりを失ってしまうのだ。
 その先に残るのは、人は社会で働くために生きる、というような近代に作られた薄っぺらい神話だ。大人が敷いたレールを外れたら負け、友人が少なかったら負け、成績が悪かったら負け。人生の豊かさというものは、むしろそういう社会的な思い込みを超えたところにあるものなのに、そのことを見失わさせてしまう。大勢と同じだと安心で、少数だと不安。実際は、全てのものは少数であることに価値が見いだされるものなのに、である。そして子どもの存在をすら、経済価値で測ってしまったりする愚かさが今、生み出されてはいないだろうか。
 イエスさまは天の国について、畑に隠されている宝の話をなさったことがある。ある人が畑の土に隠されている宝物を見つけると、それを秘密にして、帰って全財産を売ってその畑を買うというのである。それは目に見える財産や今、持っているものを捨ててでも、手に入れるべき宝は隠されているということだ。
 それは、見つけ出した人だけが分かる宝なのだ。子どもたちも一人一人、そうした宝を心の中に隠している。それはいつか掘り出されて、子どもの人生を掛け替えのない、その子だけの輝きをもつものへと変えていく力になるのだ。だからこそ私たち大人は、そうした不思議を隠し持っている存在として子どもを見ていかなくてはいけない。
 子どもは不思議で良く分からない。そのままの存在として尊び、見守っていくそうした大人として生き、社会もまたそのように変わっていかなくてはいけないと思う。就学までの身に付けるべき姿というものが、国によって示される時代だからこそ、そういう言葉では表すことのできない一人一人の価値を子どもの中にある不思議に見出していく者でありたいと思うのだ。