鴨東幼稚園

じろ園長のこっくりほっくり

幼児期は人生の土台をつくるとき

 私は、小さい頃からぼーっとした子どもで、ある時、「将来は雲の上に乗って、世界を眺めていたい」と言って、親を大変失望させたことがあった。大体、言葉もゆっくりで、どんくさい子どもであったから、野球に誘われてもフライが取れないし、バットにボールがかすらない数合わせ、ごっこ遊びでも味噌っかすの役しか与えられなかった。唯一主役を拝命するのはキカイダーごっこ(主人公の名前が私と同じジローだから)で、キカイダーの弱点である悪党の親玉ギルの笛の音でひたすら苦しむ役柄で、ガキ大将はちょっとカッコいいハカイダーというダークヒーローをするのだった。
 幼稚園の記憶は、入園説明会に氷の張ったプールの上を歩こうとして落ちて溺れかけたことと、予防注射の時に机の下に逃げ込んだことくらいしか覚えていない。きっとそういう緊急事態以外は、ぼーっとみんなについて行くような子どもだったのだろう。学校に行っても授業中は、ノートの端に落書きをしながら窓から空を見て考え事をしているような子どもだった。テストのために勉強するなんてことは、中学校になってテスト前に部活が休みになるから気付いたことで、小学校の頃は、テストというのは実力を測るものだから、テスト前に勉強したら正確じゃなくなるという謎の理由で勉強しなかった。
 そんな私がきちんと勉強をして資格をとったり、牧師として人前で話をしたり、エンチョーなんてやっているのだから、本当に不思議なことだと思う。けれど、実はこれまで生きてきた中で、いくつか自分自身の大きな変化につながる気づきがあった。テスト前に勉強しても良いんだという気づきもその一つだが、小学校6年生のとき、友だちに誘われて体操教室に通って、そこで自分の体というのはこうやって動かすのかと気づいたことがあった。また大学で心理のワークショップや演劇を通して、手の指まで自分の気持ちを通わせて思い通りに動かすことがどういうことなのか、ようやく分かるようになった。
 そしてそんな中で一番大きかったのは、大学生の頃、兄が私に「お前が羨ましかった」と言ったことだった。兄は成績優秀で、自分でいろいろ決めてなんでも実現していくような優等生だった。年子の弟の私は、学校でも先生にいつも比べられたものだった。親も、私より兄を大切だと思っていると思っていたし、いつも叱られるようなことをする自分などはいない方が喜ばれるのではないかとさえ思っていた。そんな兄が私を羨ましく感じていたというのは衝撃的な驚きだった。そしてこの出来事から、私がどれほど両親から愛されていたのか、ということに気づいていったのだった。
 私は今でも不十分な人間だけれど、曲がりなりにも一応、一人前に生きているのは本当に不思議なことだ。けれども、思い返してみると、一杯間違って、挫折もたくさんして、思い出すのも恥ずかしい失敗もたくさんして、落ち込んだり、少しヤサグレたり、閉じ籠ったりもしたけれども、心の底の底に大丈夫という土台があって、立ち直ることが出来たからだと思う。それはきっと、幼い頃、まだ自分にはなんでもできて、この世界は面白いと感じることができた時代に、両親や周りの人たちから頂いた感覚なのではないかと思うのだ。そして、この世界に生まれてくる前に神さまから戴いてきた土台なのではないかと思う。
 成長してさまざまな評価を受けたり、人の目に裁かれたりする中で、絶望を感じたりするのだけれど、追い込まれて落ち込んで沈み込んで最後の最後に足の裏がその土台につく時がくる。すると、そこからもう一度、歩き出すことができる。それは今から顧みれば、いつもは気づくことができないけれど私の中に育っていた基本的信頼感という土台なのだろうと思う。勉強ができない子、何もかもがゆっくりな子、話すのが苦手な子、運動が苦手な子、そういう子どもは本当に生きにくい忙しい今の時代だけれど、幼稚園の頃に、いっぱいいっぱい自分は大丈夫、望めば何にでもなれるんだという幸せの中に育っていって欲しいと思う。それはきっと長い人生を最終的に幸せへと道びく力になると思うのだ。